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幕末志士で人気No.1を争う坂本龍馬ですが、最初に「過大評価」だと思われるポイントをまとめてみました。
- 小説「竜馬がゆく」を書いた司馬遼太郎先生の影響
- 薩長同盟は龍馬の手柄?
- 船中八策は龍馬が起草した?
なぜ坂本龍馬は過大評価されるようになったのか?
高知は【幕末・明治維新】において色んな人物を輩出しています。私が知っているだけでも
- 山内容堂
- 吉田東洋
- 後藤象二郎
- 武市瑞山
- 坂本龍馬
- 中岡慎太郎
- ジョン万次郎
- 板垣退助
- 岩崎弥太郎
- 岡田以蔵
他にもおおぜいの人がいます。その中でも坂本龍馬のことですが…
- 勝海舟の一番弟子
- 日本で最初に株式会社【亀山社中】(後の海援隊)を興した
- 薩長同盟の仲介をした
- 『船中八策』を起草して徳川慶喜に大政奉還をさせた
- 近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された
歴史好きな人なら他にもあれがある、これもあるぞと突っ込みたいでしょうが、まずはこれぐらいで。
で、私が今回何故【坂本龍馬】のことを記事にしたかったのか?それは決して高知の桂浜で龍馬の立派な銅像を見て感動したからではありません(笑)
日本の近代史において、坂本龍馬は【吉田松陰】と並び過大評価されている人物のツートップだと思うからです。
理由は冒頭に述べました。
管理人
それでは順に龍馬が注目される出来事を追ってみます。
最初の注目 明治16年
高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』が掲載され、大評判となった事により一躍その名が知られるようになった
引用元:ウィキペディア
龍馬の死後、しばらくは注目されませんでした。大河ドラマファンの方ならご存知ですが、『龍馬伝』で岩崎弥太郎(香川照之)が新聞記者にインタビューを受ける形で龍馬のことを紹介しました。
明治皇后の夢枕に立つ 明治37年
「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。
引用元:ウィキペディア
2番めに注目されたのがこれです。日露戦争開戦前のことです。しかし真実のほどは分かりません。当時薩長閥に不満を持っていた土佐出身者が創った話と言う説もあります。
竜馬がゆく 戦後
そして戦後になり3番目の注目は何と言っても司馬遼太郎先生による『竜馬がゆく』の大ヒット。
西郷吉之助・大久保一蔵・桂小五郎・勝海舟・武市半平太・中岡慎太郎・後藤象二郎・高杉晋作他…
多くの幕末志士と関わりのあった龍馬ですが、それが故に「竜馬がゆく」という小説が出来たのでしょう。
最初に断っておきますが、私も龍馬ファンの1人です。私自身もちろん歴史の専門家でもないし、偉そうなことを言う気は毛頭ありません。
しかし誤解なきように言っておきますが、龍馬が魅了ある人物であるが故に、小説(竜馬がゆく)が出来たわけです。
ご存知の通り、司馬遼太郎先生は歴史物の【大家】であることは言うまでもありません。私も先生の著作は今まで何冊か読んでいます。
何れも面白く、力作ぞろいです。しかしこれらの著作を読んで私が思ったことはもう一つあります。
司馬遼太郎先生は、「英雄が好きな人」…もっと言えば、英雄に仕立て上げるのが好きな人…と私は感じています。
戦後先生の書き上げた著作が多くの日本人に多大な影響を与えたのは紛れもない事実です。そして【竜馬がゆく】は名作です。「小説」と割り切れば…ですね。
管理人
薩長同盟
薩長同盟締結の時、桂小五郎が何故龍馬の裏書きを要求したのか?…
読者
そうだと思います。しかしそれだけでしょうか?
本来の狙いは別のところにあったのではないのでしょうか?「グラバー照会」と取引がしたかったのではないかと?
当時長州は武器を、薩摩は米が欲しかった。お互いの利害が一致しているのを龍馬は見逃さなかった。その少し前「禁門の変」で長州は薩摩、会津連合藩にコテンパン?にやられます。
photo by 禁門の変 – Wikipedia
長州はその当時薩摩には恨みつらみだったでしょう。「薩賊」と罵ってたぐらいですから。
何でこんな藩と手を組まにゃあならんの?まぁ、そういったところでしょうか?
実際「薩長同盟」が締結されるかどうかは、実に微妙でした。互いにメンツがありましたから。
龍馬が上手く仲を取り持ったというのは恐らく事実でしょう。しかし龍馬だけの働きでは決してありませんよ笑
管理人
そして最後は薩摩側の「西郷吉之助」の英断で決まりました。(長州側の桂小五郎に頭を下げた)
当時龍馬は長崎のグラバー商会に頻繁に出入りしていました。グラバーの信頼も厚かったのでしょう。
今で言うなら優秀な「営業マン」といったところでしょうか。
長州、薩摩にとってグラバー商会と言うのは紛れもなく「今後是非お付き合いしたい会社」だったわけです。
薩摩は「薩英戦争」でイギリスに破れ、長州も「4カ国連合艦隊」との戦争でやられています。
異国との戦いにおいて、武器の性能に圧倒的な差を感じていたのは、まさしく「薩長」だったわけです。
その会社の「営業マン」らしきことをしていた龍馬はこの二藩にとって、まさしくグラバー商会との仲立ちをしてくれるキーパーソンだったんでしょうね。
船中八策と龍馬が目指したこと
しかし、『船中八策』は未だに多くの人が龍馬が書いたもの…と信じているようです。
無理もありません。後藤象二郎が当主に進言した際、龍馬が考えたものだと伝えた節があるので。
ウィキペディアでは次のように書かれてますね。
船中八策は龍馬によって書かれたとされる原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とする説もある。ただ新政府綱領八策は自筆本が残っており、どちらにしろ思想や主張の内容は同じである
未だ真相は闇の中です。いろんな状況を考えて、私は他の人が起草した説を支持しています。
海援隊と龍馬
龍馬は「今一度日本を洗濯したく候」と言う有名な言葉を残していますが、その気持に偽りはなかったでしょう。
龍馬の一番やりたかったことは『海援隊』で世界を相手に貿易をしたかったと考えるのが妥当かと思いますね。
そのためにも、洗濯して日本の仕組みを変えたかった。(変えて欲しかった)
自由に貿易のできる国になるのを望んでたのではないでしょうか?
グラバー商会は彼にとってもかけかえのないビジネスパートナーだったんでしょう。
龍馬の夢は「海援隊」を引き継いだ形になった岩崎弥太郎が叶えましたね。しかし龍馬の描いたものとはかなり違ったものになったのかもしれません。
岩崎弥太郎の記事も書いています。
書籍「岩崎弥太郎と三菱四代」の紹介と生家を訪ねる
もっともトーマス・グラバーが龍馬のことをどう考えてたかというと、本当のところは分かりません。
明治維新後、そのトーマス・グラバーが今度は岩崎弥太郎の下で働くことになるのは、何とも皮肉な出来事です。
photo by トーマス・ブレーク・グラバー – Wikipedia
勝海舟との劇的な出会いも少し気になったので、関係する書籍をいくつか読んだりしました。
まとめ
幕末は本当にカオスな時代だったですね。その中心を担ったのは間違いなく徳川慶喜と西郷吉之助(西郷隆盛)でしょう。
残念ながら龍馬のことは、慶喜は名前ぐらいしか知らない存在でした。
うがった見方をすれば、幕末における龍馬の存在はその程度だった…とも言えます。
今年は、明治元年(1868年)から起算して満150年に当たります。NHKで「西郷どん」も放映されています。
むしろ私の生まれる100年前は、まだバリバリの江戸時代だったことを考えると、そんな昔のこととは思えないのです。
歴史のことを記事にするのは難しいですね。真逆のことを考える人も大勢いるし、検証する資料も時間が経つにつれてむずかしくなりますしね。
人それぞれの解釈があって当然でしょう。
以上、お読みいただきありがとうございました。